爪先は前に向けておく

人生を肯定したい奈良大1回生のブログ

限界受験生時代の遺書を振り返る

前回のブログでもちょろっと書いたが、半年ほど前に限界受験生だった折、私は何度か自殺未遂をして警察のお世話になった。最初は2023年の9月で、自宅を出て高速バスにのり、そこそこ遠くの海に行って死のうとした。結局死に損なって浜辺で泣きながら母親に電話をかけたのち自力で帰ってきたのだが。その話は次回以降にするとして、そうして帰ってきてから気持ちを整理すべく書いた文章がGoogleドキュメントに残っていたので、それを振り返っていこうと思う。当時私はその文章を遺書と呼んでいたので、ここでも便宜上そう呼ぶことにする。

◆◆◆

わたしはずっと大人になりたくて、大人っぽいねと言われて喜ぶような子ども時代を過ごしてきました。それは精神的な成熟への憧れでもあったし、金銭的・社会的・心理的な自由を求める気持ちでもありました。最近気がついたことなのですが、わたしの精神構造の段階は極めて低いようです。幼い頃、未就学児向けの通信教育を受けていました。平仮名の読み書きから始まって、3桁の繰り下がりのある引き算までは小学校入学前に習得していました。保育園から帰ってから、その頃はまだ母が育休中で家にいたので、居間で母親とワークをやる。たとえば平仮名の「あ」と「そ」が書けない。引き算の繰り下がりがわからない。そういったことでわたしはよく泣き、癇癪を起こしました。すると母は怒って、わたしを抱えて家の外に出し、鍵をかけました。わたしはどうしたらいいかわからなくてますます泣きました。どのくらい外に放置されて、どうやって家に入れてもらったのかは覚えていませんが、10年以上経ってもなお、その時の悲しさと恐ろしさ、親に見放されたという絶望感を忘れることはありません。わたしはずっとあの時の子どもです。できないことや苦手なことと向き合いきれずに泣いています。泣いてもなんの解決にもならないのに、他にどうしようもなくて泣いています。それならばすっぱりと諦めて、別の道を探せばいいと世間では言います。わたしもわかっています。もう裸足で閉め出された子どもではない。他のやり方だっていくらでも選べます。幸いなことに親や周囲もそれを許してくれて、応援すらしてくれるでしょう。

それでも、わたしは他の道を選択できません。わたしは、勉強ができるというアイデンティティを失ったらほかになにも持っていません。勉強にだけはなんとかしがみついてきました。熱心な母親の家庭教育のお陰で、わたしは小学校で勉強に困ったことはありませんでした。まだ閉め出されることはありましたが。たいてい勉強以外の、登校拒否とか、友人関係だとか、妹と喧嘩したとか、社会と上手く折り合いをつけられないことが原因でした。登校拒否をしてぐずっていたら、山に捨てるぞと言われて、実際に近くの山に連れて行かれたこともあります。運動も、ピアノも、対人関係も、上手く行かないことの方がずっと多かった。でも勉強はクラスの誰よりもできたから、自己嫌悪を抱えながらも、自尊心を失わずにすみました。中学時代もまったくその繰り返しで、進歩がなく、学校という場に馴染めず、同年代の友人とも上手く付き合えず、自分の能力や容姿に強いコンプレックスを抱き続けている。毎日自己嫌悪はふりつもり、自己否定感は強まりましたが、一方でわたしにはまだ勉強があると、勉強では誰にも負けないのだと、プライドもまた育っていきました。高校受験からは逃げ、落ちるつもりで小論文と評定形式の選抜で地域でいちばんの高校を受けたら受かってしまい、進学先で落ちこぼれ、義務教育のころ同様に不登校になりました。高校が義務教育と違うのは、ある程度の日数を欠席すると進級できなくなってしまうことです。両親と話し合いの場を持ったとき、父親に、こんなことなら別の学校に行かせればよかったと言われました。わたしは失敗のレッテルを貼られました。その後高校をやめると決めたとき、あと3年かかってでも通信制高校に通い直し、勉強して、必ず東大か京大に受かろうと決意しました。それが叶わなかったら死のうとも。人生をやりなおさなくてはならない。父親を見返すためにも、傷ついた己のプライドを取り戻すためにも。もし、わたしの計画がうまく行ったら、全日制高校に通って大学に合格すること以上のサクセスストーリーを得ることができます。そうしたらこれは失敗ではなく、成功に必要な挫折だったことにできる。わたしはその頃毎日毎日死にたくて、かばんにカミソリと遺書と首吊りロープが入っていたので、将来を想像することで生き延びようとしていた側面もありました。プライドを傷付けられてすぐだったから、とにかく自分の誇りを取り戻すことしか、将来に望むものはありませんでした。どうせ受験に失敗したら死ぬのだから今死ななくても良いと。もし成功したら素晴らしい人生が待っているから、今死んだらもったいないと。自分の可能性を諦めきれないうちは、どんなに死にたくても死を選べませんでした。死ぬか成功するか。完璧主義によるその両極端な考え方が、わたしの人生に苦痛をもたらしていることに気付いたのはいつでしょうか。そうやって、結果以外のすべてを無意味な失敗だと切り捨てる考え方では得るものは少なく、人間的な成熟は見込めないと。気付いたときには手遅れでした。

わたしは自己否定感と肥大したプライドの化け物です。一方で自分なんて生きている価値がないと強く思いながら、心の別の場所でどうしようもなく自分の唯一の価値を誇っています。矛盾しているようですが、自分を愛せないから自分に付随する価値を愛しているだけです。勉強ができること、ひいてはそれによって得られる学歴。社会がわたしに価値を見出すとしたらそこしかなさそうです。というより、そこに価値を見出されたいのです。なぜならわたしにとってのわたしの価値は勉強しかないから。他の要素は例え他人に認められたとしても意味をなしません。わたしの中で価値がないのだから。   

もし大学受験に成功したら、化け物は生き延びることができます。プライドはますます肥大し、他者を見下して、合格した大学の名前だけに縋りながら、一方で優れた学生と交流することで己の矮小さを痛感し、また自己嫌悪はつのります。たぶん、どこかでダメになってしまいます。わたしは適度にやるとかがわからず、常に全力で、高く困難な目標に立ち向かっていないと、自分が努力していると認められません。わたしが頑張るのは、成長のためでなく失敗を取り返すため。そして、自己否定感に苛まれて電車に飛び込みたくなることがないように。積み重ねによってなにかが得られるものではなく、ただマイナスをゼロにもどそうとして、埋まらない深い穴に土を投げ入れ続けているだけ。このような心理状態で大学にいって、果たしてなにを学び、それを社会や自身にどう活かせるというのか。意味のある学問ができるとは思えないのです。

ではもし失敗したら…?わたしはアイデンティティのすべてを不合格の3文字で失うのでしょうか。お前には価値がないよと言われるのでしょうか。被害妄想じみていますが、それを考えると恐ろしくて、でもどこかでそれを待っているのです。自分にとっての全てを、言い訳のできないほど完膚なく否定されたい。そうした欲望がわたしの中にあります。破滅への衝動が、成功への病的な執着の反動として、長く私のなかにくすぶっています。それが他人に向かうことがないのだけが救いです。中学生の頃は家族に対していらだつことが多くありましたが、今はほとんどありません。わたしの抱える精神的な問題は、その多くが家庭環境に起因するものだとは気づいていますが、今となっては恨みはあまり感じません。他人のことを恨み、憎むよりも、全部自分が悪いと思っていたほうが楽なのです。家族には、今は心から申し訳なく思っています。

今までみっともなく縋っていた糸が切れたとき、わたしは今度こそすべてへの執着を断ち切り、身軽になって死ぬことができる気がします。でもたぶんそれより前に、立ち向かうべき現実の重さと、そこから逃げ続けている己の弱さに押しつぶされて死ぬでしょう。わたしが死んだときこれが遺書になります。わたしが死んだのはここまで述べてきたわたし自身の弱さが原因であり、直接的なきっかけが何であるにせよ、それはあくまでトリガーに過ぎません。

◆◆◆

現在私は適応障害による抑うつ状態の治療が功を奏し、希死念慮や強い不安感や悲観的な気分とは距離を置いているので、それなりに客観的にこの文章を眺めることができる。これは大きな進歩といえるだろう。今改めてこの文章を読み返すと、当時はかなりの視野狭窄状態に陥っていたことがわかる。いや、この当時に限ったことではなく、今までの人生のかなり長い期間がそうであったのかもしれない。そもそも視野を広く持てていれば、3年間も死ぬか京大行くかをキャッチフレーズに掲げていたりはしないだろう。では私はここまで視野狭窄状態になってしまったのか。遺書のパートで長くなってしまったので、次回のブログでそれを考えていこうと思う。