爪先は前に向けておく

人生を肯定したい奈良大1回生のブログ

生きている実感が欲しい

はい。今、夕飯も食べずに部屋に蹲ってこの記事を書いている。その前は2時間くらい意味なく街をうろついていた。挙動が限界受験生時代のそれに戻りつつある。原因は明白で、やはりどうしても京都大学を諦めきれず再受験するつもりで過去問を解き始めたのだが、動悸と手の震えが酷くて中断せざるを得なかったためだ。言ってしまえば限界受験生に再び片足を突っ込みかけている。あ~あ。

 

なんでこうなったんだろう。大学の授業が一部を除いてクソつまらなかったからだろうか。語学のレベルの低さに絶望したから?興味のあるサークルの活動が盛んでなかったから?皆真面目に将来を考えていて、学芸員か教職か司書の資格を取ろうとしているから?いくらでも理由を挙げようと思えばできるが、結局のところ、生きている実感が欲しいだけなのだ。限界受験生時代は、確かにそれがあった。例えば10時まで予備校で勉強して帰り道の月を見るとき。模試の結果が帰ってきて冊子を開く瞬間。残り時間ばかりが減って問題が解けないときの、全身から冷や汗が出る感覚。跳び上がるほどの喜びも、死にたくなるほどの――比喩ではなく――気分の落ち込みも、すべてが生の実感と直結していた。あの感覚が恋しい。命を賭けて勉強している、と思うほど、私は自分に酔っていた。アドレナリン中毒?そうかも。単にスリルを味わいたいだけなのかも。私って絶対ギャンブルやっちゃいけないタイプだ。いや既に大学受験という人生を賭けたギャンブルやったわ。途中で降りたけど。あの時は降りるのが賢明だと思ったのだ。大き過ぎる野心など捨てて、目の前の生活を丁寧にこなし、穏やかな気持ちで日々を過ごすこと。そうすれば新しい道が開けるだろうと。思ったんだけど。今でもその思いはあるのだけど。でも生きている実感が欲しい。困難に立ち向かっていたい。自己嫌悪と全能感の間でジェットコースターのように振り回されていたい。その結果として死んでもそれはそれで良い気がしてしまう。なんて傍迷惑。なんて親不孝。しかし、もうなんか、そういう生き方しかできないような気がしてきた。少なくとも今は。

 

オチはないし、夕飯もないです。今から作ります。