爪先は前に向けておく

人生を肯定したい奈良大1回生のブログ

奈良大学を辞めることにした

入学1ヶ月、奈良大学を辞め、京都大学文学部を目指すことにした。奈良大学への進学を心より祝福し応援してくれた各所に申し訳ない気持ちはあれど、友人と奈良の地に後ろ髪を引かれる思いはあれど、本当にこの環境で得られるものを手放して後悔しないのかという冷静な損得勘定あれど、それらを全て引っくるめて悩んだ結果、やはり来年京都大学を受けたいという気持ちになったのでそうする。私は今まで自分のことをプライドが高い反面、実のところ臆病で面倒臭がりで刺激よりも安定を求める人間だと認識してきたのだが、その見解を改めるべきであろう。自分、めちゃめちゃギャンブラーです。やや退屈だとしてもそれなりには楽しく平穏で将来もある程度担保されている環境から、一度は降りた勝率の低い死闘に再び突っ込んで行くのだから。

 

奈良大を辞めようと思うにいたった理由はいくつもある。語学のレベルが低い。歴史関係の授業は興味深く面白いが、一般教養には物足りなさを感じるし、あまりにも教職を取る人向けの内容で閉口してしまった。入りたかったサークルは活動しているのかもわからない。なによりその雰囲気。皆真面目で大人しく、あまりガツガツしていない。希望の進路――学芸員か教職か司書か公務員――を見据えて1年時からきちんと勉強している。私にはそれが耐え難かった。こんなの、地元にいるときと何も変わらない。私が大学生活に一番に求めていたものは自由だった。田舎の優等生の価値観をブッ壊して欲しかった。たとえ落ちこぼれることになっても優秀な学生に揉まれて、世界の広さと自分の卑小さを知りたかった。時間と体力と若さが有り余った大学生のときにしか許されない無茶をしてみたかった。

 

奈良大学で、今の環境で、求めていた大学生活を送ることはできない。そう気付くと、捨てきれなかった京都大学への思いがどんどん膨らんでいった。ひとつは自由の校風への憧れ。そして、去年受験すらできずに終わった後悔。教授がレジュメを読み上げるだけのつまらん授業中に過去問を解くようになった。もう死んでもやるものかと思った数学の教科書を開いた。やっぱり難しい。でも何かしらの手応えがあって、久しぶりにああでもないこうでもないと頭をひねるのは楽しかった。私はやっぱり、京都大学を受けたいと思った。

 

奈良大を辞めて京都大学を受けたいと伝えると、父親はもう仕方ないと言った。それならば、どうしても諦めきれないのならもう仕方ないと。母親は泣きながら、親より先に死なないなら何をしても良いから、と言った。両親が私のことを思って奈良大に行くよう勧めてくれたのは痛いほどわかっていた。もう無理をし過ぎてある日突然死のうとすることがないように。奈良という恵まれた地で好きな歴史を勉強することができるように。将来、やりたい仕事に就けるように。今まで両親に本当に心配と迷惑をかけてきたから、それに応えたい気持ちもあった。今度こそ安心して欲しかった。 

 

だけどどうしてもどうしても今いる場所を愛せなくて、京都大学を諦めきれなくて、平穏より刺激に満ちた日々を望んでしまう。親不孝で申し訳ない。良い大学を出て親を安心させたいとか、周りに一目置かれたいとか、そんな取ってつけた口実は今度こそ言えない。本当に自己満足の為だけの退学と再受験だ。それを最終的には認めてくれた両親に、心から感謝している。

 

明日、退学の手続きをしてくる。

 

 

 

 

 

幸せになっちゃいけない気がする

この感覚はなんなのでしょうね。よくフィクションで重ための過去を持ったキャラが「俺は…幸せになってはいけないんだ…」などと宣い、「そんなことない(だろ)!」とヒロインや主人公が熱く語る場面があるが、私にはそのような過去は思い当たらない。だとすれば何故、これほどまでに罪悪感と自罰感情が強いんだろうか。どうして何かに追い立てられ、苦しんでいないと生きている実感を持てないのだろうか。う〜ん。

 

結局今の自分を受け入れることが精神の安定と自己受容感の涵養にとってはいちばん大切で、それができない限りどこに行っても何をしてもいずれ駄目になる、という実感は強くあるのだ。だとすれば、今は不本意な点が多くても奈良大で頑張って、良い成績を修めて院進して、目指していたキャリアを着実に重ねていくのがベスト、なのだろうか本当に?

 

Love the life you live. Live the life you love.

 

最近この言葉が脳裏から離れない。「自分の生きる人生を愛せ、自分の愛する人生を生きろ」ボブ・マーリーというシンガーソングライターの言葉らしいが、ヒプマイの民なので有栖川帝統の座右の銘として記憶している。この言葉は、対になる2つのフレーズが一見矛盾しているようにも思える。自分の今の人生を受け入れ愛するべきなのか、自分の愛する――愛することができる人生を掴み取るべきなのか。私にはまだわからない。ここはぜひ有栖川帝統の解釈を伺いたいところだ。

 

 

 

生きている実感が欲しい

はい。今、夕飯も食べずに部屋に蹲ってこの記事を書いている。その前は2時間くらい意味なく街をうろついていた。挙動が限界受験生時代のそれに戻りつつある。原因は明白で、やはりどうしても京都大学を諦めきれず再受験するつもりで過去問を解き始めたのだが、動悸と手の震えが酷くて中断せざるを得なかったためだ。言ってしまえば限界受験生に再び片足を突っ込みかけている。あ~あ。

 

なんでこうなったんだろう。大学の授業が一部を除いてクソつまらなかったからだろうか。語学のレベルの低さに絶望したから?興味のあるサークルの活動が盛んでなかったから?皆真面目に将来を考えていて、学芸員か教職か司書の資格を取ろうとしているから?いくらでも理由を挙げようと思えばできるが、結局のところ、生きている実感が欲しいだけなのだ。限界受験生時代は、確かにそれがあった。例えば10時まで予備校で勉強して帰り道の月を見るとき。模試の結果が帰ってきて冊子を開く瞬間。残り時間ばかりが減って問題が解けないときの、全身から冷や汗が出る感覚。跳び上がるほどの喜びも、死にたくなるほどの――比喩ではなく――気分の落ち込みも、すべてが生の実感と直結していた。あの感覚が恋しい。命を賭けて勉強している、と思うほど、私は自分に酔っていた。アドレナリン中毒?そうかも。単にスリルを味わいたいだけなのかも。私って絶対ギャンブルやっちゃいけないタイプだ。いや既に大学受験という人生を賭けたギャンブルやったわ。途中で降りたけど。あの時は降りるのが賢明だと思ったのだ。大き過ぎる野心など捨てて、目の前の生活を丁寧にこなし、穏やかな気持ちで日々を過ごすこと。そうすれば新しい道が開けるだろうと。思ったんだけど。今でもその思いはあるのだけど。でも生きている実感が欲しい。困難に立ち向かっていたい。自己嫌悪と全能感の間でジェットコースターのように振り回されていたい。その結果として死んでもそれはそれで良い気がしてしまう。なんて傍迷惑。なんて親不孝。しかし、もうなんか、そういう生き方しかできないような気がしてきた。少なくとも今は。

 

オチはないし、夕飯もないです。今から作ります。

 

 

 

 

都ぞ春の錦なりける 法華寺門跡ひな会式

週末、法華寺門跡に行ってきた。近鉄新大宮駅から徒歩20分ほど。長袖一枚でも歩くと汗ばむほどの気温で、雲はあるが陽射しも強い。日傘を持ってこなかったことが悔やまれた。今回のお目当てはひな飾りの起源とも言われる法要、ひな会式(ひなえしき)。開基である光明皇后の御忌法要に55体の善財童子像を祀る行事だ。善財童子とは仏教において理想的な修行者とされている人物で、様々な指導者を訪ね歩き最後には悟りを開いたとされている。その人形が2段にわけて飾られているのが、ひな祭りにおけるひな壇の原形と言われているらしい。

参考

https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20240403/2050015810.html

 

入口の門で拝観料を払い境内には入れば、文字どおり満開の桜が出迎えてくれた。

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まずはひときわ大きな建物・本堂へ向かった。ここで55体の善財童子像と、特別公開中の本尊、十一面観音菩薩立像を見ることができる。尼僧による読経や散華も行われたらしいのだが、私はタイミングが合わず見ることがかなわなかった。

 

本堂の正面には聖武天皇光明皇后の位牌があり、その手前には55体の善財童子像が2段に飾られている。そして最奥にあるのが国宝の十一面観音菩薩立像。本堂内部は撮影禁止だったため、先ほど貼っつけたNHKのニュース映像を参照してほしい。

 

善財童子像は木製や陶製で、片足を上げたり、首を傾げたりとユーモラスな仕草がかわいらしい。その奥にはご本尊である十一面観音菩薩立像が。意外と小さい、というのが第一印象だった。約1メートルほどと小ぶりなお姿である。光明皇后が蓮池を渡る姿を写したものと伝えられており、蓮の花や葉を後光のように配した光背(こうはい)は珍しいものだという。遠目からでもふくよかな顔つきと曲線的な身体つきが見て取れた。神々しさと人間味を絶妙なバランスで兼ね備えた観音菩薩像だと感じた。

 

本堂内には室町時代文殊菩薩立像や天平時代の重要文化財の仏頭もあり、そう広い空間ではないが見応えがあった。お守りやお札の販売、御朱印の受付も本堂の中で行われている。

 

続いてこちらも特別公開中の名勝庭園へ向かった。江戸時代初期に作られたという庭園は国史跡名勝に指定されているという。5月にはコの字形の池に咲き誇る杜若が見られるそうで、きっとその頃が一番の見頃なのだろう。今の時期、苔むした庭園は緑に包まれ、咲き残った椿が唯一の彩りであった。
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本堂を挟んで名勝庭園の反対側にあるのは光月亭奈良県の指定文化財で、18世紀に建てられた庄屋の家屋を移築したものだという。藁葺き屋根と土壁がいかにも江戸時代を思わせる。建物内は休憩所になっており、無料でお水やお茶を頂くことができる。この建物は今も現役なのだ。
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土壁も屋根に葺かれている藁も厚みがあり、造りの良さを伺うことができる。かつての時代の生活の息吹を今に伝える建物は、信仰の場であった寺院とは異なる趣を感じさせた。

法華寺門跡には他にも、四季を通じて様々な花に彩られる華楽園や、光明皇后が作ったとされる日本最古の風呂である浴室(からふろ)、さらに、今回は見ることができなかったが国宝の絹本着色阿弥陀三尊を安置する慈光殿など、様々な見どころを備えている。桜の盛りはそろそろ過ぎるがこれからは藤や杜若、梅雨時期には紫陽花、夏には蓮など、四季折々の花々を楽しむことができるのも大きな魅力だろう。

 

見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける

(古今和歌集・春歌上・素性法師)

 

かつての都は今、花盛り。春の錦の中で日々を送れる幸せを噛み締めている。

 

 

 

 

 

 

入学式と奈良でいちばんホットな出土品

4月2日、奈良大学・大学院の入学式があった。好天に恵まれ、コートがなくても十分に暖かい。正門前の看板と写真を撮り、講堂へ。講堂は体感銀劇くらいの広さであった。学部学科ごとに座るエリアが分かれていて、史学科はセンターブロック最前列であった。観劇でこのお席がご用意されたら向こう3年は語り継ぐであろう良席である。5月に観劇する予定のミュージカルなどS席にも関わらず3階席の5列目という、観劇前から見えないことが確定しているお席だというのに。式自体に特筆すべき点はなく、開式の辞にはじまり、入学許可宣言、校長と理事長の話、在校生代表による挨拶などがあって閉式。校長と理事長の話も学校の沿革や奈良という地の素晴らしさ、大学生活での心構えを語るといったオーソドックスなものであった。毎年話題になる某大学の学長式辞のようなインパクトはないが、話がそう長くなく簡潔なのはありがたい。開式前に所要時間約40分との案内があったが、実際は35分程度で終了。この分なら書類配布などがあっても昼前には帰れるな、と思ったら、休憩を挟んで雅楽研究会による雅楽の演奏があるという。さすが奈良。演目は「迦陵頻」(かりょうびん)、迦陵頻伽という仏教において極楽浄土にいるとされる霊鳥に由来するらしい。雅楽の演奏に加えて霊鳥に扮した舞があり、素人にも見応えがあった。その後学部ごとに教室への案内があり、配布物を受け取り説明を受けていたら12時半を回った。教室を出て噴水前の広場を歩けば、あちこちでサークルのビラを手渡され、大学に来たな、という実感が湧いた。いくつか気になっていたサークルのビラも受け取ることができたのだが、気になっていた仮面ライダー研究会と現代短歌会の勧誘には出会うことができなかった。明日以降出会えるだろうか…

 

学食で昼食を済ませ、一旦家に戻って着替えた後、橿原考古学研究所附属博物館へ向かった。昨年度の富雄丸山古墳の調査で出土して以来、初めて一般公開された蛇行剣を見るためだ。

 

https://www.city.nara.lg.jp/site/press-release/201144.html

 

近鉄畝傍御陵前駅から徒歩5分ほど、博物館へ着くとソアリンのオープン当初みたいな行列が目に入った。これなんと蛇行剣の観覧待ち列で、待ち時間は2時間らしい。2時間待ちと聞いて帰っていく客もいたが、折角ここまで来たのだからと並んでみる。私は博物館や美術館が混んでいたら嬉しくなってしまうタイプの人間だ。近年資金繰りに苦しむ博物館が増え、昨年にはかの国立科学博物館クラウドファンディングを実施したのは記憶に新しい。そんな中で多くの人が博物館を訪れる、ということは喜ばしいことだろう。勿論、いち観覧者としては空いているに越したことはないので、ガラガラの博物館も大好きだ。

 

閑話休題。待機列はゆっくりだが動いていたので、1か所に立ちっぱなしのストレスはなかった。スタッフは多く、案内が丁寧である点も好ましい。2時間待ちとのことだったが、1時間20分ほどで蛇行剣のある特別展示室へと辿り着いた。特別展示室内は入場制限が行われているため混雑することはなく、確実に蛇行剣を見ることができる点で勝たシステムだと思う。順路に従って展示室内へ入ると、まずは発掘作業の過程を記したパネルや蛇行剣のX線画像を見ることができる。出土した蛇行剣をガーゼやウレタンで保護し、地面から切り離す作業は相当な慎重さが要求される作業であることがわかる。X線画像は14分割して撮影したものをひとつに合成しているのだという。確かに、2メートルを超える長さの剣を一度にX線撮影するのは難しいだろう。また、剣身に付着した鞘の木材をCT装置を用いて木目を観察することで、ホオノキを用いたものだと特定したという。考古学は地道で緻密な作業によって成り立っているのだな、としみじみと感じた。

 

そうこうしているうちに蛇行剣の展示されているガラスケースの前へ。第一印象としてはとにかく長い。東アジア最大と言われるだけあって、朽ちた細身でありながらも迫力があった。特徴のひとつである剣身の蛇行は案外目立たない。歩きながら見るとうねっているのがわかる、と展示室のスタッフからの案内があったのだが、なるほど、剣身にそって歩きながら見ると確かに湾曲している部分があることがよくわかる。脊椎の生理的湾曲を想起させるカーブが、しかし古代人の手によって作られた人工物であるという事実は大変に興味深い。当時の高い技術を伺うことができるし、これほどの剣とともに埋葬された人物とは何者であったのか想像を掻き立てられる。蛇行剣や富雄丸山古墳の調査によって、「謎の4世紀」が謎ではなくなる瞬間を見ることができるかもしれないと思うとわくわくが止まらない。

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橿原考古学研究所附属博物館は本来ならば午後5時に閉館となるのだが、蛇行剣の観覧希望者が非常に多かったために開館時間を午後5時30分までに延長する措置を取ってくれた。お陰で、駆け足ではあるものの常設展「大和の考古学」も観ることができた。


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巨大な円筒埴輪や


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奈良らしい鹿型の埴輪もあり、常設展だけでも十分な見応えがあった。また今度ゆっくり観に来たいものだ。  



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埴輪と土偶のぬいぐるみのガチャガチャがあったので回してみた。かわいい。ミュージアムショップも充実しており、特に古代や刀剣に関する書籍が多く取り揃えられていて、刀剣ファンとしては心惹かれるものがあった。

 

そんなわけで4月2日は入学式のち博物館という盛りだくさんな1日だった。今これを書いているのは3日後の4月5日である。入学式の翌日から始まったオリエンテーション履修登録の準備に追われ、なかなか書いている時間がなかった。嘘、時間はあったのだけど寝落ちたりだらけたりしていた。奈良のこと、大学のこと、ひとり暮らしのこと、自分の精神のことなどブログに書きたいことはまだ山ほどあるのだが、来週から授業も始まるのでなかなか書く時間が作れないかもしれない。このブログの第一の目的は生活の質の向上であるから、書かないことによってそれが目指せるのなら書かないことを選択するべきであろう。しかし私にとって書くことはもはや生活に欠かせない動作のひとつであるから、これからものろのろと書いてはひっそりネットの海に放流していくことになると思う。

 

 

 

新居に連れていく本一覧

遺書振り返りの続きが一向に終わらないので気分転換。4月から奈良大学に通うにあたり、初めてひとり暮らしをすることになった。ワンルームの新居がカオスと化すことを防ぐためには、部屋の片隅に積み上がる本の中から連れていくべきものを厳選する必要がある。

 

横に積むよりほかにどうしようもなくなった本たち

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そこで、新居の蔵書リストも兼ねて連れていく本たちをリストアップしていこうと思う。

 

  1. 歴史・文学に関する本
  2. 課題図書
  3. 短歌に関する本
  4. 小説
  5. 大学の勉強に役立ちそうな本
  6. 参考書系

 

1.歴史・文学に関する本

純粋な興味と大学での勉強のふたつの観点からこの分野の本は欠かせない。とはいえ専門的な本は持っていないので、そこら辺で買える文庫か新書ばかりだ。高校時代の因縁の恩師(そう呼ぶ所以はそのうちに)、K先生から頂いた本も多い。

 

 

こうした本は今後も増えることが予想されるが、本は生き物なので増殖するのは自然の摂理である。よって(収納以外の点においては)なんら問題はない。

 

2.課題図書

因縁の恩師K先生から必要な教養として読んでおくようにと頂き、その中でも特に読んだほうがよさげな本たち。新居の肥やしにならないことを切に願う。 

 

 

頂いた本はあと50冊以上あり自室を圧迫している。なかには大量のペンギンブックスとか、「西洋哲学史」の英語版とかもあるが私の英語力が追い付いていないので置いていく。

 

3.短歌に関する本

短歌を始めて1年と少し経った。地元でいちばん大きい本屋に短歌コーナーなどはなく、文芸の棚の片隅に茂吉の歌集がひっそりと置かれている程度なので、私の持っている歌集はほぼすべて都市部の大きい書店で買ったものだ。先日初めて三省堂書店の本店に行ったときは棚ひとつがまるまる短歌コーナーとなっていることに深く感動し、理性を失ってかごに歌集を積みまくったのだが、深刻にお金がないことに気がついて泣く泣くそれらを棚に戻した。欲しい本をぜんぶ買える大人になりたい。

 

 

本音を言えば歌集はぜんぶ持っていきたいが、いかんせん収納の問題がある。そのため笹井宏之「えーえんとくちから」だけは以外は積読本から選んだ。「えーえんとくちから」は無人島に1冊だけ本を持っていけると言われたら迷わず選ぶ大好きな歌集だ。これについてもそのうち書きたい。

 

4.小説

現実逃避にはやっぱり物語の世界に入り込むのがいちばんなので小説は欠かせない。人にもらった本が多い。

 

 

5.大学の勉強に役立ちそうな本

他にどう分類したらいいかわからない

 

 

6.参考書系

FPと英検用+大学入試用のもの。これも大学の勉強に役立てたり、あるいは仮面浪人のお伴になるかもしれない。山川の日本史は教科書より、日本史研究の方が読み物っぽくて面白いからそっちを持っていく。

 

  • 「うかる!FP速攻テキスト3級」日本経済新聞出版
  • 「2023年度版英検1級過去6回全問題集」旺文社
  • 「英検1級でる順パス単」旺文社
  • 「大学入試英語長文plus 速読トレーニング問題集」旺文社
  • 「詳説 日本史研究」山川出版社
  • 日本史B一問一答完全版」金谷俊一郎、東進ブックス
  • 「書き込み教科書 詳説日本史」山川出版社
  • 「新修 古典文法」荻野文子編著、京都書房
  • 「英単語の語源図鑑」清水建二・すずきひろし著、かんき出版

 

これでもかなり頑張って厳選したのだが、段ボール一箱分という当初の想定を余裕で超えてしまった。

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新居での本たちの収納スペースがどうなるかはまだわからないが、京極先生も仰っていた通り本の収納のコツは愛と執念であるから、そのように取り計らっていきたいと思う。週末に引っ越しを控えているので荷造りに追われているものの、通い慣れた本屋にも最後に顔を出しておきたい。その結果としてまた連れていく本が増えるだろうが、ひとり暮らしのお伴は多いほうが心強いだろう。向こうでも本たちに囲まれた愉快な生活が送れることを切に願っている。

 

 

 

 

限界受験生時代の遺書を振り返る

前回のブログでもちょろっと書いたが、半年ほど前に限界受験生だった折、私は何度か自殺未遂をして警察のお世話になった。最初は2023年の9月で、自宅を出て高速バスにのり、そこそこ遠くの海に行って死のうとした。結局死に損なって浜辺で泣きながら母親に電話をかけたのち自力で帰ってきたのだが。その話は次回以降にするとして、そうして帰ってきてから気持ちを整理すべく書いた文章がGoogleドキュメントに残っていたので、それを振り返っていこうと思う。当時私はその文章を遺書と呼んでいたので、ここでも便宜上そう呼ぶことにする。

◆◆◆

わたしはずっと大人になりたくて、大人っぽいねと言われて喜ぶような子ども時代を過ごしてきました。それは精神的な成熟への憧れでもあったし、金銭的・社会的・心理的な自由を求める気持ちでもありました。最近気がついたことなのですが、わたしの精神構造の段階は極めて低いようです。幼い頃、未就学児向けの通信教育を受けていました。平仮名の読み書きから始まって、3桁の繰り下がりのある引き算までは小学校入学前に習得していました。保育園から帰ってから、その頃はまだ母が育休中で家にいたので、居間で母親とワークをやる。たとえば平仮名の「あ」と「そ」が書けない。引き算の繰り下がりがわからない。そういったことでわたしはよく泣き、癇癪を起こしました。すると母は怒って、わたしを抱えて家の外に出し、鍵をかけました。わたしはどうしたらいいかわからなくてますます泣きました。どのくらい外に放置されて、どうやって家に入れてもらったのかは覚えていませんが、10年以上経ってもなお、その時の悲しさと恐ろしさ、親に見放されたという絶望感を忘れることはありません。わたしはずっとあの時の子どもです。できないことや苦手なことと向き合いきれずに泣いています。泣いてもなんの解決にもならないのに、他にどうしようもなくて泣いています。それならばすっぱりと諦めて、別の道を探せばいいと世間では言います。わたしもわかっています。もう裸足で閉め出された子どもではない。他のやり方だっていくらでも選べます。幸いなことに親や周囲もそれを許してくれて、応援すらしてくれるでしょう。

それでも、わたしは他の道を選択できません。わたしは、勉強ができるというアイデンティティを失ったらほかになにも持っていません。勉強にだけはなんとかしがみついてきました。熱心な母親の家庭教育のお陰で、わたしは小学校で勉強に困ったことはありませんでした。まだ閉め出されることはありましたが。たいてい勉強以外の、登校拒否とか、友人関係だとか、妹と喧嘩したとか、社会と上手く折り合いをつけられないことが原因でした。登校拒否をしてぐずっていたら、山に捨てるぞと言われて、実際に近くの山に連れて行かれたこともあります。運動も、ピアノも、対人関係も、上手く行かないことの方がずっと多かった。でも勉強はクラスの誰よりもできたから、自己嫌悪を抱えながらも、自尊心を失わずにすみました。中学時代もまったくその繰り返しで、進歩がなく、学校という場に馴染めず、同年代の友人とも上手く付き合えず、自分の能力や容姿に強いコンプレックスを抱き続けている。毎日自己嫌悪はふりつもり、自己否定感は強まりましたが、一方でわたしにはまだ勉強があると、勉強では誰にも負けないのだと、プライドもまた育っていきました。高校受験からは逃げ、落ちるつもりで小論文と評定形式の選抜で地域でいちばんの高校を受けたら受かってしまい、進学先で落ちこぼれ、義務教育のころ同様に不登校になりました。高校が義務教育と違うのは、ある程度の日数を欠席すると進級できなくなってしまうことです。両親と話し合いの場を持ったとき、父親に、こんなことなら別の学校に行かせればよかったと言われました。わたしは失敗のレッテルを貼られました。その後高校をやめると決めたとき、あと3年かかってでも通信制高校に通い直し、勉強して、必ず東大か京大に受かろうと決意しました。それが叶わなかったら死のうとも。人生をやりなおさなくてはならない。父親を見返すためにも、傷ついた己のプライドを取り戻すためにも。もし、わたしの計画がうまく行ったら、全日制高校に通って大学に合格すること以上のサクセスストーリーを得ることができます。そうしたらこれは失敗ではなく、成功に必要な挫折だったことにできる。わたしはその頃毎日毎日死にたくて、かばんにカミソリと遺書と首吊りロープが入っていたので、将来を想像することで生き延びようとしていた側面もありました。プライドを傷付けられてすぐだったから、とにかく自分の誇りを取り戻すことしか、将来に望むものはありませんでした。どうせ受験に失敗したら死ぬのだから今死ななくても良いと。もし成功したら素晴らしい人生が待っているから、今死んだらもったいないと。自分の可能性を諦めきれないうちは、どんなに死にたくても死を選べませんでした。死ぬか成功するか。完璧主義によるその両極端な考え方が、わたしの人生に苦痛をもたらしていることに気付いたのはいつでしょうか。そうやって、結果以外のすべてを無意味な失敗だと切り捨てる考え方では得るものは少なく、人間的な成熟は見込めないと。気付いたときには手遅れでした。

わたしは自己否定感と肥大したプライドの化け物です。一方で自分なんて生きている価値がないと強く思いながら、心の別の場所でどうしようもなく自分の唯一の価値を誇っています。矛盾しているようですが、自分を愛せないから自分に付随する価値を愛しているだけです。勉強ができること、ひいてはそれによって得られる学歴。社会がわたしに価値を見出すとしたらそこしかなさそうです。というより、そこに価値を見出されたいのです。なぜならわたしにとってのわたしの価値は勉強しかないから。他の要素は例え他人に認められたとしても意味をなしません。わたしの中で価値がないのだから。   

もし大学受験に成功したら、化け物は生き延びることができます。プライドはますます肥大し、他者を見下して、合格した大学の名前だけに縋りながら、一方で優れた学生と交流することで己の矮小さを痛感し、また自己嫌悪はつのります。たぶん、どこかでダメになってしまいます。わたしは適度にやるとかがわからず、常に全力で、高く困難な目標に立ち向かっていないと、自分が努力していると認められません。わたしが頑張るのは、成長のためでなく失敗を取り返すため。そして、自己否定感に苛まれて電車に飛び込みたくなることがないように。積み重ねによってなにかが得られるものではなく、ただマイナスをゼロにもどそうとして、埋まらない深い穴に土を投げ入れ続けているだけ。このような心理状態で大学にいって、果たしてなにを学び、それを社会や自身にどう活かせるというのか。意味のある学問ができるとは思えないのです。

ではもし失敗したら…?わたしはアイデンティティのすべてを不合格の3文字で失うのでしょうか。お前には価値がないよと言われるのでしょうか。被害妄想じみていますが、それを考えると恐ろしくて、でもどこかでそれを待っているのです。自分にとっての全てを、言い訳のできないほど完膚なく否定されたい。そうした欲望がわたしの中にあります。破滅への衝動が、成功への病的な執着の反動として、長く私のなかにくすぶっています。それが他人に向かうことがないのだけが救いです。中学生の頃は家族に対していらだつことが多くありましたが、今はほとんどありません。わたしの抱える精神的な問題は、その多くが家庭環境に起因するものだとは気づいていますが、今となっては恨みはあまり感じません。他人のことを恨み、憎むよりも、全部自分が悪いと思っていたほうが楽なのです。家族には、今は心から申し訳なく思っています。

今までみっともなく縋っていた糸が切れたとき、わたしは今度こそすべてへの執着を断ち切り、身軽になって死ぬことができる気がします。でもたぶんそれより前に、立ち向かうべき現実の重さと、そこから逃げ続けている己の弱さに押しつぶされて死ぬでしょう。わたしが死んだときこれが遺書になります。わたしが死んだのはここまで述べてきたわたし自身の弱さが原因であり、直接的なきっかけが何であるにせよ、それはあくまでトリガーに過ぎません。

◆◆◆

現在私は適応障害による抑うつ状態の治療が功を奏し、希死念慮や強い不安感や悲観的な気分とは距離を置いているので、それなりに客観的にこの文章を眺めることができる。これは大きな進歩といえるだろう。今改めてこの文章を読み返すと、当時はかなりの視野狭窄状態に陥っていたことがわかる。いや、この当時に限ったことではなく、今までの人生のかなり長い期間がそうであったのかもしれない。そもそも視野を広く持てていれば、3年間も死ぬか京大行くかをキャッチフレーズに掲げていたりはしないだろう。では私はここまで視野狭窄状態になってしまったのか。遺書のパートで長くなってしまったので、次回のブログでそれを考えていこうと思う。